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思考の檻

更新日:10月10日

思考

見えない法則はどこにあるのか


もし、いま信じている常識を「当然のこと」と思っているなら、一度立ち止まって見つめ直すきっかけになれば幸いです。


人はときに、自らが頼ってきた世界観の枠組みから抜け出すことを恐れ、その枠組みそのものを見ようとしなくなります。

こうしていつのまにか「思考の檻」は、静かに、けれど着実に出来上がっていきます。


歴史を振り返ると、この現象は決して珍しいものではありません。

例えば、中世ヨーロッパの長い知的なる停滞期は、その代表例の一つです。

天動説が常識だった時代


天動説
Wikimedia Commons

当時、既存の宇宙観として絶対的不動の説として君臨していたいわゆる天動説は、聖書の解釈やアリストテレス哲学とも結びつき、当時の教会の教義とも深く一体化していました。

最近では「チ」が話題になりましたね。

「地は動かない(The world cannot be moved)詩編93:1」

聖書の詩篇に記されたこの一節は、象徴的な詩文でありながら、

当時は“地球が宇宙の中心に静止している”という教義の裏づけとして扱われていました。[注1]


ガリレオ裁判の記録にも、この節が引用されているほどです。

封じられた知 ― 三角法と観測の抑圧


Trigonometric
Wikimedia Commons

ここで重要なのは、当時、知性の道具がどう扱われたかです。


三角法という言葉を聞いたことがあるでしょうか。

私は数学が得意ではないので、説明が簡単なものしかできませんが、三角法とは、三角形の角度と辺の長さの関係を使って、遠くの対象の位置や距離を割り出す数学的な手法なのだそうです。

測量や航海、天体の位置を計算するための基盤として用いられていました。

三角法を用いれば、観測データから星の位置や地上の距離を比較的正確に求めることができます。

けれど、当時の権威構造は、新しい観測や計算が既存の天動説的宇宙観を揺るがす可能性を常に警戒していました。

疑問を感じ始めていた一部の天文学者や司祭もいたようですが、口にすれば、教義の一貫性を脅かすと見なされ、異端の烙印を押され処罰される危険があったのです。

結果として、観測や理論の自由な進展は制度的な抑圧にさらされ、夜空が教えてくれる多くのことが見落とされました。

それでも、閉ざされた世界に小さな光が差し込む瞬間は訪れます。

レオナルド・ダ・ヴィンチは、形の中に秩序を見ようとしました。

ダ・ヴィンチが見た 形の中の法則


Leonardo da Vinci
Wikimedia Commons

彼にとってそれは、物質の形を写し取る行為ではなく、形を通して神の法則を聴き取る試みでした。神の法則は世界を貫く声とも言えます。

ダ・ヴィンチは多面体の角や辺の比率を丹念に測り、面と面の関係を計算することで、立体の奥に潜む比例や調和を可視化しようとしたのです。

正十二面体や正二十面体のような図形に潜むリズムを手がかりに、形そのものを“宇宙の言語”として読み解こうとしました。

この探究が行われたのは、まさにルネサンス(再生)の時代です。

中世からルネサンスへ ― 思考の再生


Fra Luca Bartolomeo de Pacioli
Wikimedia Commons

それまでの中世ヨーロッパでは、神の言葉がすべての中心にあり、人間の知や探究はその枠内に制限されていました。

けれど、14〜16世紀にかけて、人々は再び古代ギリシャやローマの思想を見つめ直して、人間の知恵と感性にも、神に通じる価値があるのではないかと考えるようになります。

こうした思想は、人文学者のエラスムス、ピコ・デラ・ミランドラらが考えていたことでもありました。[注2]

神を中心とした世界観から人間そのものを中心とする視点へという、これがまさにルネサンスの転換でした。

そのような時代の流れの中で、ダ・ヴィンチもまた、人間や自然のリアルな美を追求することに力を注いでいたのです。

ピタゴラスやプラトンの時代から、数学・比例・幾何学は「宇宙や神の秩序を解く鍵」とされてきました。

ダ・ヴィンチのこうした形と比例への関心は、この古代から続く探求の系譜と共鳴し、それらの探求をルネサンスという新しい時代の場で再び蘇らせました。

彼のノートに残された多面体のスケッチは、単なる幾何学的研究ではなく、数学的観察と芸術的直観を結びつけ、「問いを立て、考えること」そのものの再生を象徴しています。

権威や慣習に無批判・無思考に従うのではなく、目の前の形を丁寧に見直すこと。

それが彼の示した重要な姿勢であるのではと感じています。

現代にも残る思考の檻


現代社会
現代社会

では、現代はどうでしょうか。

私たちの社会にも似たような「思考の檻」が存在します。

ここ数年で顕著だったのは、働き方や教育に関する常識を覆すような急激なゆらぎです。

ダ・ヴィンチが形の中に秩序を見いだしたように、私たちの時代にもまた、日々の働き方や人のつながりの中に、新しい秩序や意味を見出し、模索する時代となりつつあります。

リモートワークやオンライン教育の普及は、これまで当たり前とされてきた枠を一気に押し広げました。

通勤にかかる時間が削られることで、生活の余白が増えました。

朝の満員電車や長い通勤時間がなくなり、体力や時間を別のことに使えるようになった人も多いかもしれません。

一方で、対話の場が画面越しに限定されることで、ちょっとした雑談や偶然の出会いが減り、孤立感や情報の非対称により生まれる課題も可視化されました。

教育の側面では、オンラインは地理的な壁を壊し学びの機会を広げましたが、教室で直接観察できる微妙な表情や学習態度、実験・実技の手触りは補いにくいという現実もあります。

そして最近では、「やはり人と顔を合わせることには価値がある」として、出社や対面での活動が見直される動きも出てきています。

企業が重視するのは、単に席を合わせることではありません。

偶発的な会話から生まれるアイデア、若手の学びの場としてのオン・ザ・ジョブ指導(先輩の仕事を横で見て学ぶ機会)、組織文化の継承など、こうした非定型かつ非認知的な価値が、対面の場には残っているのです。

教育でも、オンラインの利便性を取り入れつつ、対面でしか生まれない学びの瞬間(討論、実験、フィールドワーク)をどう設計するかが問われています。

この短期間で社会の常識が激しく揺れた結果、戸惑う人は少なくありません。


かなり慣れてきた頃ではあると思いますが、慣れとは思考停止となる可能性もあり、問い続ける姿勢が重要であると思います。

どのやり方が正しいのか分からず疲弊している人、選択肢が増えすぎて判断が先送りになる人、逆に安全な既存の枠に戻りたがる人など、反応はさまざまです。

こうした混乱は、結局のところ「どの枠組みが自分の価値に合っているか」を個々人が問い続ける必要を突きつけています。

では、どうすればこの「見えない檻」を壊し、自由に思考し続けられるのでしょうか。

私自身が実践的だと思う、シンプルで日常に落とし込みやすい方法を三つだけ挙げます。(こちらはメールレター読者様のみの特典となっていますので、SNSでは省略しています)

見えない枠を超える3つの方法



​日常を観察し、形の中に法則を見つける


考える枠の拡大や自由に思索する能力は、偶然に手に入るものではありません。

実際に「自由に考えてみてください」と提案されると、なかなか自分の中から新しい発想が出てこないことを感じる方も多いはずです。

それは「自分は興味が少ない人間だ」と判断するには早計で、自由に発想するだけの脳の使い方をまだ理解していないことがほとんどなのです。

日々の小さな練習と、他者との交わり、小さな日々の工夫や実験によって育まれます。

ダ・ヴィンチが形を丹念に観察して比例を読み取ったように、私たちもまた「日常の形」を丁寧に観察し、そこから新しい法則を引き出していけるはずです。

できればそれらを楽しみながらできることがとても良い。

そういったことに関することも、香り師や夢叶のタイマネグループではあらゆる角度から日々、行っています。


経済・価値観の転換と次の問い


最後にひとつ。

経済や金融の常識も、今まさに書き換わりつつあります。

お金や価値の見方が揺らぐとき、人々の選択や社会の仕組みも大きく変わります。

このテーマは奥が深く、別稿でじっくり取り上げたいと思います。興味があれば、その回を楽しみにしていてください。


今日の問いかけはここまで。

あなたが普段当然だと思っていることを、次にふと疑ってみる瞬間が来たら。

それが最初の一歩です。

小さな好奇心と勇気を持って、世界の檻から一歩出てみることをぜひおすすめします。小さな冒険です。

見えない法則を日常でどう活かすか。

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香り師

​このテーマの背景や史実をもう少し踏まえて、ブログでは注釈をつけています。

---[注1]聖書における詩的表現と天動説の関係---

※93章1節

「主は王となられた。みずから威光をまとい、力を帯びておられる。世界は堅く立ち、動かされることはない。」

英語訳(King James Version)では、

“The world also is established, that it cannot be moved.”

この「世界は動かされることはない」という表現が、地が動かないということを詩的・象徴的表現として、説明されている。(ヘブライ語を訳すと「揺るがない」という意味になる。)「地球は動かない=地は宇宙の中心で静止している」という解釈に用いられました。

※104章5節

「主は地の基を定められた。地はとこしえに揺るがない。」

“He set the earth on its foundations; it can never be moved.”

この節も、まさに「地が動かない」と明言しているように読めるため、

中世の神学者たちはこの言葉を地動説を否定する根拠として引用しました。

※伝道の書 1章5節

「日は昇り、日は沈み、またその昇る所に急ぐ。」

“The sun rises and the sun sets, and hurries back to where it rises.”

この節は、「太陽が動き、地が静止している」ように太陽の動きの観察描写として描かれているため、「太陽が回る=天動説的宇宙観」として自然に読まれてきました。

学術的にも、これらの節が天動説擁護に使われた史実は確認されています(例:トマス・アクィナス『神学大全』やガリレオ裁判の記録)

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---[注2]聖書における詩的表現と天動説の関係---

エラスムス(Desiderius Erasmus, 1466–1536)は、ルネサンス期を代表する人文学者で、理性と寛容を重んじる思想を広めました。宗教改革の混乱の中で、信仰と理性の調和を模索した人物です。


ピコ・デラ・ミランドラ(Giovanni Pico della Mirandola, 1463–1494)は『人間の尊厳について』で、人間は神から自由意志を授けられ、自らを形づくる力を持つと説きました。


この二人の思想は、神中心から人間中心への転換を象徴する代表例といえます。

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