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見える世界 見えない世界

哲学の世界で長く議論されてきた「物自体」という言葉。


カントはこれを


「私たちが知覚できる現象の背後にある、直接知ることのできないもの」


として定義しました。



つまり、私たちの認識はあくまで「現象」に限られ、


その背後にある「物自体」には人間の認識は直接触れられないというのです。


この考えは非常に難解で、


多くの哲学者や思想家がさまざまな解釈を試みてきました。


カントの思想は、初期の著作と後期の批判哲学で微妙に変化しています。


初期には理解が物自体をありのままに捉えられると考えていましたが、


後期ではその考えを改め、


物自体は人間の認識能力の限界を超えた、


原理的に知ることのできない存在だと結論づけました。



一方、プラトンのイデアは、これとは異なる概念です。


プラトンはイデアを、


私たちの感覚では捉えきれない、永遠で完全な「真の実在」として捉えました。


.物自体が認識できない点では似ていますが、


イデアは人間が"想起し得るもの"であり、完全なる理想のモデルとして存在しています。

 

完璧なものって感じ?



どちらも、完全には触れることのできないもの


という点では共通していますが、


「物自体」は世界の本質的なありようであり、私たちが知覚を通して到達できないもの。


「イデア」は、私たちが理性で想起する、理想的な“型”のようなものです。



その意味では、「物自体」は永遠に触れられないもので、


「イデア」は私たちが目指し、思い出し、近づこうとするもの。


とも言えるかもしれません。



立場は違っていても、


どちらも「この世界の向こう側」にあるものである。という感覚は似ています。


目に見えず、触れることもできない。


それでいて私たちの生きる世界には、抗いようのないほど、深く関わっているものです。

 


今回はそこに共通性を見出し、話を続けようと思います。



たとえば、愛や善といった概念がわたしたちの世界には存在しています。


これらは目に見えず、数値化もできませんが、


たしかに存在していて、私たちの行動や選択に影響を与えています。


完全に理解できなくても、「ある」と感じることができる。


その感じ取る力こそが、


私たち人間のもつ感性であり、


見えないものやその世界とともに生きるための感覚なのかもしれません。

 


ここで理解しておかなければならないのは、


私たちは世界そのものを見ているわけではないことです。



過去の記憶、身体の感覚、使う言葉も、信じている価値観も


それらは多くのフィルターを通して、


世界を「見ている」と思っているにすぎない。



だからこそ、同じ出来事でも、


人によって感じ方や意味づけはまったく異なります。


それは時に誤解やすれ違いを生みますが、


同時に、一方で通じ合うきっかけにもなります。



たとえば、誰かが微笑んだとき。


そのほほえみの意味を、私たちはすぐには知ることができません。



脳の反応や筋肉の動きは科学で説明できても、


ひとつは、


それらをわたしたちは環境と合算して情報として処理しようとするため、


与えられた環境により異なる文脈で理解する可能性があります。



また、もうひとつは、


その人がその微笑みに込めた思いや背景は、


表面からでは見えてこないことがある。



けれど、私たちはそうした“わからなさ”を前提に、


相手の言葉や仕草だったり、


または沈黙の中に何かを感じ取ろうとします。



未だ科学では測りきれないものが、たしかにそこにあるのです。


そして私たちは、それを頼りにしながら、


または依存しながら、盲目的に生きているのです。

 


そんな曖昧で、不確かでつかみどころのない世界に


わたしたちは生きています。


この世界の成り立ちは、まだ解明はされませんが


それでも多くの先人たちが推測してきたそれらに習い、


この世界の仕組みを理解しようと努めることは


幸福へつながるのではないかと思うのです。


この混沌としたわからない世界に溺れることなく


歩むことが出来るようになる切符を手にするようなものだからです。



「やっとまともに歩ける」


そんな感覚かもしれません。



だからこそ、問い続けること。


「ほんとうにこれは真実なのか?」


「これは、自分の目にどう映っているのか?」


そんな問いを持ち続けることが、


世界への敬意であり、そして、


自分自身を柔軟に、そして健やかに保ち続ける術なのではないかと、私は思うのです。


この世界を知ろうと歩み寄れば、


自分自身の人生もまた理解し始めることが可能になります。


これからまた、さまざまな角度からお伝えをしていく所存です。


柔軟に生きることができ、自分らしい道を多くの人が見つけられますように。

霊性

さらともみ

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