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“迷惑をかけてはいけない”と思うとき

心理

私たちはいつも「私」という主語の中で生きています。


「私はどう思うか」「私はどうすべきか」と、一人称の視点で世界を見つめ続ける。


でも、ときには“自分を三人称で見る”という距離のとり方が、心をとても軽くしてくれることがあります。


養老孟司先生がよく語られる「人称と死生観」という話にも通じますが、


自分を少し外側から眺めると、“私は”という執着から離れ、出来事をただ観ることができるようになります。


養老先生が語る「人称」とは


他人事

養老先生は、人の「人称」を手がかりに、死生観を語られます。

そこから思うことを書いてみようと思います。

先生は、自分が死ぬということを考える時、

これほど具体的に考えにくいものはないと仰います。

先生は「死は人称変化する」と。

先生は、自分の死というのは一人称だと。

自分の死を認識することはできない。

知ることはできない。

よく考えるとそうですよね。

自分が死んだかどうかはわからない。

死を「自分で確かめる」ことはできないからです。

それを先生は「一人称の死はない」と表現されます。

そしてまた、三人称の死も「ない」

三人称の対象は、他人です。

知らない人や、テレビの中で起こる出来事など、

自分とは直接関わりのない第三者を眺めるとき、

他人事のように感じる距離にいる他者に起こることは「三人称」

三人称の死も「ない」

では存在する死というのは何かというと

二人称の死です。

わたしとあなたの関係性。

二人称では感情のやりとりが生じ、喜びや悲しみが行き交います。

親しい人の死だけが、自分の中に存在する。

「私」という主語の中で生きている私たち

自意識

ここで考えてみたいのが、

「生きているとき」の

一人称、二人称、三人称の人称変化はどのようなものだろうか。

と、私は思ったのです。

自分が死んだかどうかはわからないし、

死を「自分で確かめる」ことはできない。

にも関わらず、

私たちは死を恐れます。

今、生きている「わたし」という存在は

死というものをまるで知っているかのように恐れるのです。

この人称変化から起こることは、

私たちの苦しみの構造にもつながっています。

私たちは、一日の多くを一人称や二人称の世界にとどまり、

「私が」「あなたが」と、苦しみの渦の中でもがいています。

「自分」という枠を強く持ちすぎているために、

些細なことに深くこだわり、

抜け出せない苦しみを自ら作り出してしまう。

そしてそれは、「あなた」という二人称の存在がいるときによく起こるものです。

人の悩みというのは人と人の間にしばしば起こる。

人称というものを、死生観の文脈だけでなく、

「生きているあいだの心のやりとり」に置き換えてみるとどうでしょう。

たとえばコミュニケーションの世界にも、人称の違いがはっきりと現れます。


​二人称までは“主観の中のやりとり”


ケンカ

Iメッセージ、Youメッセージという言葉があります。

「あなたが悪いから私はこんなに傷ついた」

このように 相手(You)を主語にして伝えると、

自分自身も相手も責められたように感じて不和が生じやすくなります。

一方で、

「私は寂しかったんだ」

というように 自分(I)を主語にして伝えると、

自分の気持ちを素直に表現でき、

相手にも本当に伝えたかった思いが届きやすくなります。と、

そのような話が、以前流行った記憶があります。

確かにその通りではあると思います。

Youメッセージは非難的であったり、

相手の行動を評価する伝え方になりやすく、相手が防衛的になりやすい。

Iメッセージは自分の感情やニーズを主語にして伝えることで、

相手に責めの印象を与えず、対話的な関係を築きやすい。

コミュニケーション、対話の方法として大切なことであると思います。

けれど、ここで今私が思うのは、

コミュニケーションする前に、

自分自身の内側で起きたことを考えるとき、

「私が」「あなたが」とやりとりする世界は、

どこまでいっても主観の中だということです。

つまり、主語をIに変えても、Youに変えても、

主観同士がぶつかり合うだけで、

本当は、根本的な苦しみや対立の構造そのものからは抜け出せません。

その物語では、感情がすべてです。

感情とコントロールの世界に生きている限り、苦しみは尽きません。

​自分から少し離れると、苦しみがほどける

解放

けれど、三人称の目で自分を眺めてみると、

物語の全体が見えてきます。

パズルを上から眺める様に三人称の目線を採用する。

すなわち、自分という存在と距離を取る。

出来事の中の“登場人物(しかも主役)”としての自分から離れ、

“物語を見ている自分”へと位置が変わるのです。

例えば、

「人に迷惑をかけてはいけない」と強く信じている人がいたとします。

その人は

「(私はあなたに)迷惑をかけてはいけない」と思い込んでおり、

それを当然の倫理だと信じて疑わない。

けれど、三人称に視点を移して自分を眺めてみると、

「(私はあなたに)迷惑をかけてはいけない」と、

躍起になっていたり、過剰に気を遣っている彼女を

見つけることができるかもしれません。

そうすると、こんな疑問が出てくる可能性もあります。

「そもそも彼女はなぜ、迷惑をかけてはいけないと思っているのだろう?」

人に気を遣えることはマナーとして当然。

間違ってはいないと思うのです。

けれど、角度が違うような気もしてきます。

考えているそもそもの前提に違和感が生まれる。

主観の中での“当然”は、

客観から見ると決して当然ではない可能性が出てくる。

客観的に見れば、 おそらく、

その人は普段から気遣いのできる人で、

実際には「迷惑などかけていない」かもしれない。

(絶対ではないですよ。例がむずいからここではあまりこまかいシチュエーションにこだわらないで。)

ただ本人が「迷惑をかけないように」と意識して動いているだけなのです。

これは一人称の目線です。

「迷惑をかけないように」

「迷惑をかけないように」

「迷惑をかけないように」

もう少し付け加えるならば

「迷惑と思われたかもしれない」と相手の意向を考えている、

とも言えるけれど、これも一人称の目線から抜け出していません。

ここが大切なところで、

他者がどう感じているか、はここに本当の意味では加味されていないのです。

「相手に迷惑をかけないように」は、

相手のことを考えているようで、考えていない。

常に自分が主役です。

相手を立てているという自分が主役なのです。


三人称の目線で観察するとき、

そのような構図に気づく可能性がでてきます。

けれど、一人称や二人称の中にいるとき、

私たちはこの当然の感覚や前提に気づくことができません。

そしてそのズレを、

自分を常識や正しさという名の鎖で縛り、

自分で自由を奪っていく。

そうしていつの間にか、柔軟な心の器を失っていくのです。

常識にしばられ、 正しさに囚われ、

やがて「自分の気持ちなどわからなくなります」

常識を真実だと疑わない自分(一人称)の完成です。

その結果、何が起こるかというと、

ここからがホラーなのですが、

「迷惑をかけないように」生きてきた人の前には、

なぜか、

“迷惑を気にせずふるまう人” が、次々と現れる。

「どうしてこの人は気を遣えないの?」

「どうしてこんなにも無神経なの?」と感じるような人が次々出てくる。

自分以外の人が間違っているように見え、

自分の前に現れる世界(毎日)が苛立ちで満たされていく。

私からすれば、それはホラーのような現象です。

でも、本人は気づかないのです。

自分はまともで、相手がおかしいと思っている。

けれどほんの少し、視点を離すだけで、 世界はまるで違って見えてきます。

自分という枠から解放され、現実の見え方が変わります。

​仏教でいう「観」の目


仏教 観

それが「俯瞰する力」です。

それは、仏教で言えば「観(かん)」の目を持つこととも言えるのかもしれません。

出来事に飲み込まれず、ただそれを見ている意識に気づくことです。

この「観る」側の意識に立つと、 執着は自然にほどけていきます。

苦しみと思っている人、思ってもいないこと色々ありますが、

イラつく現実があるなら、「自分の前提の何かが違うのかもしれない」と

顧みることは大切で、

そういうときは、 苦しみの原因を切り離そうとするのではなく、

苦しみを抱える“自分”が一人称の主役になっていないかを考える。

そして、客観視できる三人称の距離に自分を置き直してみる。

その距離が、心の自由を取り戻す入口になるのです。

​三人称で生きる小さな練習

猫

ここまで、養老先生の「人称の変化」という言葉をきっかけに、

自分なりに考えを巡らせてみました。

先生が語られた「人称の変化」のお考えとは、

少し異なる方向へと進んでしまったかもしれません。

それでも、先生のご講義を通じて

思索を深める機会をいただけたことに、

感謝の気持ちを込めて、ここに記しておきます。

また書きます。


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さらより。


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