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悩みの本質とその解決への道

私たちは日々、「なぜ?」を探し求めています。

悩んでいる人がまず口にするのは、自分の悩みについての説明です。


その説明が一通り終わると、次に出てくるのは


「それでどうしたら良いのでしょうか」という問いかけです。

「先生、どうしたらいいですか?どうしてこうなって、それをどうしたら良くなるのでしょうか?」


けれど、私たちはそれらに正確に答えてみたところで、


それがその人を癒すことに必ずしも直結はしていないことを知っています。


ドイツの生理学者であり物理学者である

ヘルマン・フォン・ヘルムホルツはこう述べていたそうです。

「物理学は『なぜ(why)』の学問ではなく『どのように(how)』の学問である」

例えば、大切なペットの命が尽きた時、心から悲しむ女性に対して、

「それは事故によって全身を強打し…出血がこれだけあったからです」と説明をしても、

その説明は決して間違ってはいないはずですが、彼女を納得させ、癒すことには繋がりません。

そしてその次に求める答えが得られないと感じると、わたしたちは、howからWhatに移行します。

「それってそもそも何なのか?」と問い直し始めるのです。

「死とは何か」ということです。

この流れは、セッションや話し合いをしている時にも良くみられる現象(思考の流れ)です。

最初は原因を探し、そしてそれという理由が見当たらないと、今度は「それとは一体何なのか」を探しに行く。

これらの問いは哲学的、または宗教的な領域にまで広がることがあり、


最終的には答えに到達することのないような深みのフィールドへと足を踏み入れることとなります。

考えること自体は興味深いものの、それがその人の心を癒すコミュニケーションには必ずしも行き当たらない。

健康について学んでいる時にも、同じような感覚を覚えることがあります。

例えば目の前に頭痛で悩む人がいて

「どうしてこの薬を飲むと頭痛が止まるのか?」

このような疑問がひとつ湧いて出たとき、その答えを知りたくなる学び手は、

「それはまず体内のこの神経伝達物質に…」といったように、生体反応や薬理学を理解しようと努めます。

それらは確かに学び手としては体の神秘にも触れ、とても面白いものではあるのです。

学び手として理解しておくべき知識であることも間違いはないとも思いますし、学びを深める素晴らしい機会でもあります。

けれど、それはあくまでも知的な情報であり、その延長線上に存在する個人的な興味であり、

それがあるからといって、実際に頭痛で悩んでいる人を直接的に助けるばかりではないことも多いのです。

​​

頭痛で悩む人がいて、鎮痛剤を飲んだらいいですよ。というアドバイスもあれば、

代替医療でこれを使えば良いという提案の可能性もあります。

逆に薬を飲みすぎては良くないので控えたほうが良いという人もいるでしょう。

けれど、様々な対策があるにも関わらず、なかなか根本的な解決には至らないことも多いのです。

ビジネスのコンサルティングでも同じようなことが想像できます。

「これをすれば簡単に稼げる」という正論を並べても、動くことができない人は、できないのです。


それは本当に、単純に本人の努力不足という言葉だけで片付けられるものなのでしょうか。

私たちは目の前の悩みを抱える人たちに、何を提供しているのでしょうか。

心のメカニズムを理解し、それを伝えただけでは、それが必ずしも彼女たちを癒すわけではないのです。

かといって、そこからWhatに移行しても、それらは探究者の心に問いかけはするものの、目の前にいる悩む人を直接癒すことには繋がりません。

これは私もたくさん経験してきました。

私たちはそのもっと奥にある、悩みから生じる感情的なものが発する何かや、言葉にならないもの、揺らぎに寄り添い、

それらがどのような過程と時間をかけて穏やかなものへと変化していくのかを共に体験していくことが大切なのではないかと思います。

そして探求すべきは、それらの背後にあるものを共に感じ、

それを時には彼女たちのかわりに翻訳し、時には沈黙の中で時間を共有し、時には見守ることです。

それらのタイミングと向き合い方、言葉の選び方、心情を理解していく術を持って、意識と無意識にちょうどよく語りかけていく。

それらが私たちにとって重要なものなのではないかと思います。

私たちが心の悩みにどのように向き合うべきかについて、河合隼雄先生のご著書を読んで改めて考え、自らの経験と照らし合わせながら感じたことを綴ってみました。


写真は白鳥さん〜^^


白鳥

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